管理釣り場の歴史
国内の管理釣り場の起源は戦後、アメリカ進駐軍のための保養施設としてできたものがスタートである。○○国際マス釣場など、国際と名のつく釣場名が多いのはその名残である。当時の進駐アメリカ人にとってニジマス釣りをとおして家族や仲間とコミュニケーションを取ったり、自家製燻製を作ったりするのが遊びだったようだ。 |
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太平洋戦争後まもなく駐日アメリカ軍の法務官、トーマス・ブレークモア氏が秋川の一部を借りてライセンス制のフライ専用釣り場を始めたのが今日の管理釣り場の原型とされている。当時はアメリカ軍の仲間とその家族の利用がほとんどで、釣りを楽しんだ後にビール片手にバーベキューを楽しんでいたらしい。この頃、日本人の利用はあまりなかった。その後ブレークモア氏から釣り場を地元が引継ぎ、国内のフライフィッシングを広めるきっかけ作りとなった。
→養沢毛鉤専用釣場
→ブレークモア法律事務所 |
起源は今のところ分からないが「釣」という字で追うと、平安時代には建築様式「寝殿造」の中の構成要素に水上に作られた「釣殿(つりどの)」という施設があり、そこは舟遊の際の乗降場にあてられたり、納涼や月見、雪見の場所として用いられたようだ。一説にはあくまでも水の上に「吊ってある」建物であって、貴族たちが釣りを楽しむための施設と断定するほどの物証があるわけではないが、非常に興味深い施設である。
〜源氏物語より〜
いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。
親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。 例の大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。
「さうざうしくねぶたかりつる、折よくものしたまへるかな」 とて、大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。
※注)文中に出てくる鮎は西川(桂川)より献上されたもので、釣殿で釣ったものではない。釣殿で光源氏は中将の君や親しい殿上人たちと涼みながら、調理人に鮎を調理させて食したという逸話。
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